理系ピアノ奏者におすすめの書籍9: 自分の音で奏でよう!

公開日: 2016年2月7日日曜日 ピアノ 持論 書籍

こんにちは、リトピです。

こちらは、理系である私がおすすめする書籍をご紹介するコーナーです。 今回ご紹介する9冊目はこちら。

著者はホルン奏者なのですが、練習や演奏、音楽に対する考え方は目から鱗です。最後の方のページでこの書籍の監修者である中島大之氏はこう語る。

(前略)ホルンのみならず、あらゆる楽器の演奏家、音楽学生、音楽教師、音楽愛好家を、その新しい考えで、実践的、そして哲学的に導いてくれる必読書であるといえる。(p.239)
確かにその通りだと思いました。内容的には『音楽家のためのアレクサンダー・テクニーク入門』『ミスタッチを恐れるな』に近いものがありますが、この書籍の方が断然読みやすいです。練習や演奏、音楽に対して新たな考え方を見出してみたい方は、まずこの書籍から読むことをオススメします。

特に、「根性論」で練習を続けてきた方々、とにかくがむしゃらに練習を続けてきた方々には、この書籍の内容に引き込まれてしまうこと必至でしょう。そのような方たちには強くオススメします。

この書籍を読んで、特に目から鱗だったものはこちら。

プロでも、言っていることとやっていることが違う
やはり、そう思う人は他にもいらっしゃるんですね。書籍では、「危険なまでに優秀な生徒が多すぎる」と語っています。つまり…
教師が真実だと言ったことは何でも、素直に鵜呑みにして受け入れてしまうのだ。
もし、その「真実」が、ただの意見だったらどうなってしまうだろう。(p.24)
これは…権威のある先生やプロの演奏家でさえ、言っていることとやっていることが違うのは大問題ですね。でも、その言っていることを鵜呑みするかどうかの選択は、他でもない生徒(いわば自分自身)であることを忘れてはいけません。

自分の進歩・成長に【責任】を持つのは自分自身
教師に頼り過ぎて自分の音を【自分の耳】で聴かなくなってしまうのは良くある話。上記の話とリンクしていますが、上記の「言っていることとやっていることが違う」ことを鵜呑みにするとこうなります。
結局のところ、生徒自身が自分をだめにする選択をしているのだ!(p25)
上手くいかなかったことを教師の(教え方の)せいにしている人、そんな考え方では一向にうまくなりません。今すぐ、他責ではなく自責で物事を考えましょう。

練習はいらない
練習という言葉が危険なのは、大抵の練習評価は「どれだけ疲弊したか」「何時間やったか」でしか見ていないことが多いからです。以下の言葉が心を貫きました。
自分に対する言い訳として練習をする人があまりにも多すぎる。(p.48)
つまり、今までの練習という概念を捨てて、常に【新しい感覚】を探すことに専念してみましょう。

「中心を射抜いた音は胸を打つ(p.80)」
人を感動させる音・音楽とは?というところをうまく文章化していると思います。例えば「理性ではなく本能を揺さぶる音(p.86)」や「音だけで人々の心にしびれるような刺激と感動を与えようとは~(p.108)」です。この考え方はいいですね。

小さな音量はろうそくと同じ
ピアニッシモは「ただ弱い」だけではないことを、視覚的に理解できる言葉にしたのは素晴らしい!
その炎が放つ光は、文字も読めないほど暗いのに、はるかかなたからでもしっかり見える(p.83)

まだまだこの書籍から学んだことはたくさんあるので、ご紹介していきたいのですが、今回はこの辺で。

なお、一番驚いたのは、私が今までブログで散々言ってきたことのほとんどが、この書籍に書かれていたことです(笑)「アレクサンダー・テクニーク」的な考えを軸にすると、誰しもがほぼ同じ解にたどり着くのかもしれませんね。これはある種の真理かな、と考えてみたりしています。

問題点「スナップショット」

ただ、この書籍にも問題点があるとすれば1点。それは「第5章 お待ちかねの……技術的な問題」の「5.1.b 「スナップショット」―運動感覚と記憶」です。これだけは唯一、この著者でさえ「実際にはやっていないことを教えている」と断言します。いや、正確に言えば、「【上達する過程において】、著者はそれをやっていなかった」はずです。

「パチリ!」と記録しているのは、その感覚、状態から得られた【結果】

書籍では、スナップショットについて…鏡で(見た目で)判断するのはダメ。うまくいったときの「運動感覚」「筋肉の状態」を「内なる「運動感覚カメラ」」で記録しよう、ということを言っています。鏡を使うのがダメなのは私も賛成です。なぜなら、見た目や形は、人それぞれだし、大事なのは内部の動きなので、鏡を使う意味はほぼないです。でも、「運動感覚」「筋肉の状態」に頼るのもダメなんです。(正確には、筋感覚を養えば、それは可能ですが、それを鍛える方法の説明もなしに最初から【感覚】に頼るのはあまりにも無理があります。)

私の記事「番外編1: なぜ人は「脱力」できたと思うのか」でも話しましたが、人の感覚は「ずさん」です。【感覚】は、その時の好みに大きく左右されるのはもちろん、【感覚】というものは絶対評価ではなく相対評価です。上手くいったときの【感覚】はその時、そのタイミングで感じただけです。それに到った後の【結果】はいつでも同じですが、そのときに得られる【感覚】は身体のコンディションなどによって当然異なります。

実は、この章のまとめでは、以下のように正しく吹けたときの【音】に着目しています。それはつまり、正しく吹けたときの【結果】を「パチリ!」としている、と言えるのではないでしょうか。

たとえ見た目は正しくても、良い音が出るとはかぎらない!

しかし

見かけが良くなくても良い音を作り出すことは可能であり

しかも

本当に良い音が出ているのに正しくない
ということはあり得ない!(p.127)

このことより、著者が「パチリ!」と「スナップショット」していたのは【感覚】ではなく【結果】だった、と言えるはずです。

矛盾点: アンブシュアは微調整、補正を行う

もし、著者自身が、書いているように、「パチリ!」と記録するのは【感覚】や「筋肉の状態」である、とすれば、以下の矛盾が生じます。

実際、プロの演奏家として成功している人たちは、アンブシュアの微調整、補正を長年にわたりずっと重ね続けているのである。(p.146)
アンブシュア(マウスピースに当てる口の形)の「微調整」や「補正」をすると、口に当たっている位置が変わるわけですから、当然、最初の頃に感じていた「運動感覚」「筋肉の状態」は変わるでしょう。

でもなぜ、プロはそれをするのか。恐らく、その時に得られた【結果】つまり、楽器から出る【音】に注目しているからでしょう。身体のコンディションは年々変わるわけですから、出す【音】を同じに(良く)するため、そのときの自身のコンディションに合わせ、アンブシュアを変えていくのは至極自然だと思います。

これがもし、うまくいったときの【感覚】「筋肉の状態」を「パチリ!」と記録していたら、もう得られるはずもない当時の【感覚】や「筋肉の状態」を追い求め…恐らく「アンブシュアの微調整、補正」はまったく行われず、身体のコンディションに合わなくなってきて、最悪どんどん吹けなくなってくるかもしれません。

大事なのは【感覚】を常に一新すること

人間は日々成長しています。大人になってもそれは変わりません。身体は大きくなるし、筋力も増えて(衰えて)くる。もちろん音楽の嗜好・目指すべき方向なんてものも、どんどん変わっていきます。それなのに昔と同じままの【感覚】(良い・悪いなど)、「筋肉の状態」(吹き方・姿勢など)を続けて、いいことなんてあるのでしょうか。大事なのは、古い【感覚】を捨て、新しい【感覚】を常に入れるべきではないでしょうか。

その過程で築いた自身の「筋感覚」(詳細は、記事「お悩み相談室7: ピアノの練習方法を教えてほしいのですが…その1」を参照)が確かなものになった(感じていることと実際との差異がなくなった)ときに初めて「パチリ!」と【感覚】を記録しても良いと思いますが(たぶん著者はこのレベルに達しているから、書籍にそう書いたのだと思います。)、その領域に達したとしても大事なのは、常に新しい【感覚】を取り入れることだと、私は主張します。

では。

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