特集9: 「アドラー心理学」からピアノ練習方法を学ぶ2

公開日: 2016年3月17日木曜日 ピアノ 持論

こんにちは、リトピです。

今回も、「アドラー心理学」からピアノ練習方法を学んでみましょう。(前回記事はコチラ

前回は、とやかく理由をつけて「自分は下手だ…」という言い訳をしてしまう方への「アドラー心理学」実践方法をお話ししました。一向に上達しないのは、【可能性のなかに生きる】ことを【自ら】選択していたからであり、それを払拭するためには、今持っている身体、環境や状況に対して【それでいいんだ】と思い、それらを駆使して【自分の力】で【今の状況】を変えていくんだ、というお話をしました

これは、個人だけ(自分自身だけ)の問題だったので、比較的簡単に「アドラー心理学」を実践できましたが、今回は、他者とつながりを持つ「親・教師」、「子ども・生徒」に向けたお話しをお送りします。人に【教える】、人から【教わる】とはどういうことなのでしょうか。では、今回も「アドラー心理学」からピアノ練習方法・指導方法を学んでみましょう。

本記事は、特に以下の方々たちに向けて書かれています。今回はPart2ということで、「ピアノを教える親・教師」、「ピアノレッスンを受ける子ども・生徒」へお送りします。
  1. ○○だから、自分は下手だ…と思うアナタ(前回記事
  2. ピアノを教える親・教師
  3. ピアノレッスンを受ける子ども・生徒

2. ピアノを教える親・教師へ

前編: 問題提議

指導として良くありがちなのは「叱って伸ばす」「褒めて伸ばす」(もしくはその両方(あめとムチ))だと思います。子どもや生徒への指導の際、実際にそのどれかをやられていると思いますが…それらを行うと、その対象である子ども・生徒はどうなるのか、【ミスタッチ】を例に、ちょっとシミュレーションしてみましょう。

叱ってのばす場合

この場合、子ども・生徒が【ミスタッチ】をしたら当然叱ります。叱られた子ども・生徒は、「なにくそっ!」と思いながら必死に【ミスタッチ】を減らす練習をする…人もいるでしょう。それでうまくいけばいいですが、うまくいかなかった子ども・生徒はどうなるか。。。嫌々練習するならまだしも(いや、それも良くないな)、最悪、叱られまくったせいでピアノが嫌いになって辞めてしまうかもしれません。

この場合、一体誰のせいになるのでしょうか。【ミスタッチ】を減らす練習を最後まで頑張れなかった子ども・生徒?…そう思ったアナタ。いやぁ、親・教師は楽な仕事でいいですねー、すべてを人のせいにできて。。。自分の叱り方が足りない、と思ったアナタも楽な仕事ができていいですね、相手を叱り付けるだけで十分だなんて。。。

褒めてのばす場合

今度は上記とは逆で、子ども・生徒が【ミスタッチ】をしなかったら褒めます。一見良さそうに見えますが…当然、子ども・生徒が【ミスタッチ】をすれば、アナタは彼らを褒めませんよね。では、考えてみてください。子ども・生徒がどんなに頑張っても、なかなか【ミスタッチ】が減らなかったら…彼らはどうなるでしょうか。きっと、子ども・生徒は「どうせ、褒められないんだったら…」と嘆き、練習意欲が薄れるか、最悪、褒められなくなったせいでピアノがつまらなくなって辞めてしまうかもしれません。

この場合、いったい誰のせいになるのでしょうか。【ミスタッチ】を減らす練習を最後まで頑張れなかった子ども・生徒?…そう思ったアナタ。いやぁ、親・教師は楽な仕事でいいですねー、すべてを人のせいにできて。。。自分の褒め方が足りない、と思ったアナタも楽な仕事ができていいですね、相手を褒めちぎるだけで十分だなんて。。。

ここで「自分の叱り方が足りない」「自分の褒め方が足りない」と思った方、「次は○○の部分を叱ろう/褒めよう」と考えたら、再度上記に当てはめて読み直してみてください。。。はい、無限ループの出来上がりですね。うーん…では、子ども・生徒への指導はどうすればいいのでしょうか。

中編: 解決に向けて

さて…実は「アドラー心理学」では、そもそも相手を叱るのも褒めるのもダメだ!と言っています。えっ、今日、教育現場で当たり前のように続けられている行為がダメだなんて…この内容は衝撃的ですよね。もちろん、その理由はキチンとあります。まずは、褒める行為、叱る行為とはどういうことなのか考えてみましょう。

まず、褒めるという行為。どんな場面に使われるか想像すればわかると思いますが…

ほめるという行為には「能力のある人が、能力のない人に下す評価」という側面が含まれています。(『嫌われる勇気』p.197)
相手を褒めるとき、褒める側の人は大抵(恐らく無意識のうちに)相手を「能力のない人」と決めつけているはず。格下と思っている相手から褒められると、ちょっとムカッときたことありませんか?それは上記の理由からです。(ただし、自分がムカッとくるのは、自分を敬わない相手のせいではなく、相手を格下と決めつけている自分のせいですので悪しからず。)

次に、叱るという行為。これは単純に【自分の言うことを聞かせるため】に叱っているのでしょう。実は、褒めるという行為も叱るという行為も、その真意は同じなんです。それらの

背後にある目的は操作(『嫌われる勇気』p.198)
なんです。意識的か無意識的かは別として、相手を褒める・叱るとき、相手を操作させようとしています。もうちょっと別の言葉で言えば、褒めること、叱ることは、生徒や
こどもを支配すること(『幸せになる勇気』p.121)
なんです。つまり、褒める行為、叱る行為は、子ども・生徒と【上下関係】を築くことを目的としています。

ここで「えっ、子どもや生徒は、本当に自分より能力のない人だから、別に褒めてもいいじゃん!」「自分自身がやりやすいように相手を支配するのは教育では当たり前でしょ!」と思ったアナタ。後編で詳しく話しますが、ここで悪循環になっているピアノ指導問題を解決へ向かわせるためには、「尊敬」「信頼」がキーワードになっています。

褒めることによって、【自分には能力がない】というレッテルを張り付ける相手や、【上下関係】を無理やり作ろうとしてくる相手を、アナタは「尊敬」「信頼」出来ますか?相手を「尊敬」「信頼」しない限り、相手の教えなんて、正しかろうがなんだろうが、聞く耳持てませんよね。子ども・生徒に起こっているのは正にコレなんです。つまり、子ども・生徒が聞く耳を持たなくなるのは、アナタに「尊敬」「信頼」出来なくなるから、というわけです。。。

うーん…非常に厳しいようですが、これが現実なんですね。これも「アドラー心理学」が【人生の劇薬】と呼ばれる所以の一つでしょう。

後編: 解決方法

大事なのは上記でちょっと説明した「尊敬」「信頼」なんですが…ここで勘違いしてはいけないのは、相手から「尊敬」「信頼」されるようにアレコレしろ…というわけではない、という点です。

他者信頼

まず初めにやらなければならないのは【自分自身が】相手を「尊敬」「信頼」するんです。「えっ、なんで親・教師たるオレらから、子ども・生徒を「尊敬」「信頼」しなきゃならないの?」とお思いのアナタ。だって…「こらぁ、オマエラ!俺様を敬えっ!!信頼しやがれっ!!!」とドスの利いた声で相手に「尊敬」「信頼」を強要しても逆効果だ、というのは皆さんもわかっておられるでしょう(それに気付かず(?)似たようなこと言っている人もいたりしますが…)。

さらに、ここで気をつけなければいけないのは、「尊敬」「信頼」するのは、相手の【行為】ではなく【存在】そのものに対してである、という点です。つまり、相手の「やっていることがスゴイ!」ということに「尊敬」「信頼」を置くのではなく、「相手とのつながりがある」というだけで相手を「尊敬」「信頼」するんです。

ここは非常に理解しにくい部分ですね。ここで【一期一会】という言葉を思い出してください。「もう、その人と出会えただけでサイコー」という意味の四字熟語でしたね(ぇ)。とにかく…「この出会いは一生に一度しかないんだから、その相手に誠意を尽くそう」という考え方は、まさに、相手の【存在】に対して「尊敬」「信頼」をする行為だと思います。

要は、指導する対象が、子どもだろうと、生徒だろうと、小学生以下だろうと、超初心者だろうと、全く区別せず、一人の【人】として接することが大事(これが【横の関係】を築く上で大事だと思ってます)。【教える】にあたって、相手の歳も経歴も地位も身分も、ぜーんぶ、全く関係ありません。

課題の分離1

さて、ようやく相手を一人の【人】として考える・「尊敬」することが出来たら、次はどうするか。まず相手に関心を持ちましょう。例えば【ミスタッチ】したとき、アーティキュレーションを見落とていしたとき、「なぜそうなったのか?」を聞いてみましょう。そして、その理由・解決方法を【一緒に】考えてみましょう。すぐ叱る・怒る・指摘をするのではなく。。。ここが「アドラー心理学」でよく言われる【課題の分離】の第一歩です。

ある問題に対して、それを解決すべきは誰なのか?もしそれが解決されなければ誰が損をするのか?…それら考え、その問題を適切な人に割り振って、その人自身に解決させるのが【課題の分離】という考え方。ただし、これをはき違えて「【ミスタッチ】が多いと演奏会で恥をかくのはアナタよ…そんな姿、私(親・教師)は見たくないわ!だから、たくさん練習しましょ!」と指導するのはアウト。

これは、【ミスタッチ】という問題を、相手に振り分け…ているように見えて、実は子ども・生徒を【支配】しようとしています。相手を【支配】するという、叱る・褒める行為や、このような発言の

すべては自らの保身のため(『幸せになる勇気』p.121)
である、ということを心得ておきましょう。つまり、上記の例では、アナタは「【ミスタッチ】する子ども・生徒が可哀想だから…」と思っているのではなく、「【ミスタッチ】をする子ども・生徒を持つ親・教師」というレッテルが自分に張られないようにするため、つまり自らの保身のために、子ども・生徒を【支配】しようとしているわけです。自分を【支配】しようとしてくる相手を「尊敬」「信頼」なんてできるわけないですから、これでは指導はうまくいきません。

課題の分離2

「なぜそうなったのか?」を聞くときに大事なのは、相手を「信頼」することです。彼/彼女なら【自分の力】で絶対に答えを導き出せる!と相手を信じるわけです。ただ、アナタは聞きっぱなしで何もやらなくてもいい…というわけではなく、「わからなければ、解決への【サポート】は全力でするよ!」という姿勢を見せることも大事です。

ここで重要なのは、「親・教師」としての(上から目線による)姿勢を見せるのではなく、あくまでも対等な(同じ目線による)姿勢を見せましょう。つまり、「えっ、こんなこともわからないの?仕方ないなぁ、教えてやるよ。。。」ではなく「そっか、わからないんだったら、一緒に考えてみよう!」というスタンスが大事。

ただし、相手に見せるのはその姿勢・スタンス【だけ】。その問題の答えは、相手(子ども・生徒)に出させるようにしましょう。ここはキッチリ【課題の分離】をしなければなりません。毎回こちらが教えていると、相手の「自分で考え・答えを出す力」が育たなくなりますから。。。ここは、質問の仕方によって相手に物事の利点をしゃべらせるというSPIN(営業の技術の一つ)を参考すると良いでしょう。

リトピが思う、指導における注意点

最後に。その子ども・生徒が出した答えが、親・教師目線から見て明らかに間違っている場合はどうすればいいのか。本来は、SPINの考え方などを活用して、相手に正しい答えを導かせられればいいのですが、そんな簡単にはいきません。

この場合、(誰かが死ぬ、などの大きな事件・事故が起こらない範囲でならば)【一度やらせてみる】が正解だと思っています。親・教師目線から見て明らかに間違っているのであれば、すぐ失敗するでしょう。そのときまた「なぜそうなったのか?」を聞いて、再度相手に考えさせるんです。

ここでもし、子ども・生徒の出した答えをすぐ「間違いだ」といって指摘ばかりしていると、相手は「そっか、自分の出した答えは全部ダメなのか。もう自分で考えるのを止めて、親・先生からの指導を受けるのを待とう」と考えてしまう可能性があります。このように【相手に依存】してしまう状況は、子ども・生徒自身が作り出しているのではなく、間違いなくアナタが作り出しています。

要は、「子ども・生徒自身が出した答えには責任を持て!」ということを実感してもらうために、たとえ親・教師目線から見て明らかに間違っている場合でも【一度やらせてみる】んです。そして、その失敗を【自分が決断した結果】だと認識させるんです。そうすれば、【なぜ、失敗したのか?】【どうすれば、今度は失敗しなくて済むのか?】という前向きな思考が子ども・生徒の中に生まれます。

逆に、まったく子ども・生徒に考えさせたり、決断をさせたりをせず、親・先生が作ったレールに子ども・生徒を載せてた場合(親・先生が考える答えを、子ども・生徒にポンポン出してあげている場合)は、何かの拍子で失敗したとき、子ども・生徒は、「その(失敗に至った)決断をしたのは自分ではない」と思っているので、「失敗したのは、親・教師の指導が良くなかったせいだ」と訴えてくるでしょう。これも、【相手に依存】していると言えるでしょう。

つまり、子ども・生徒が自分自身で考え行動(自立)してくれないのは、単に子ども・生徒がふがいないのではなく、アナタの指導に問題があるのかもしれませんよ。まずは相手に興味を持ち、相手が間違いを犯したとき「なぜそうなったのか?」を聞いて、一緒に理由・解決策を考えてみましょう。

3. ピアノレッスンを受ける子ども・生徒へ

上記を読んで「そっか、叱ったり褒めたりして、自分を【支配】しようとしてくる親・教師がいるから、オレ/私は下手なんだな。。。あぁ、使えない親を持った子ども・厳しい教師に師事する生徒に属するオレ/私ってホント可哀想だよなぁ…」なんて思ってたら…それは大間違いですぞ!!そんな甘い考えを持っているアナタ自身がダメだ、ということに気付きましょう(詳細: 前回記事へ)。

この考え方は、まさに書籍『幸せになる勇気』にある「悪いあの人」「かわいそうなわたし」を語っている状態。ダメなことすべてを「悪いあの人」(ここでは、叱ったり褒めたりして、自分を【支配】しようとしてくる親・教師)に押しつけ、「かわいそうなわたし」(ここでは、親を選べない子どもや厳しい教師に師事する生徒に属するオレ/私)に浸り、【悲劇のヒロイン】のようにふるまい、最終的に、

自らの不幸を武器に、相手を支配しようとする(『嫌われる勇気』p.89)
わけです。そんな人は上達・成長・自立なんてできません。

ここで「えっ、なんでオレらが悪いの!?親・教師の役目は子ども・生徒を教えることだから、まず彼らが必死に頑張るべきじゃねーの!?」と思ったアナタ。そんなアナタには、以下のアドラーの言葉を捧げます。

「誰かが始めなければならない。他の人が協力的でないとしても、それはあなたに関係ない。わたしの助言はこうだ。あなたが始めるべきだ。他の人が協力的であるかどうかなど考えることなく。」(『嫌われる勇気』p.212)
うーん、アドラー先生は非常に厳しいお方だ。正論ですな。

ここで「いやいや、親・教師などの目上の人に逆らうなんて無理だよぉ…」と思うかもしれませんが、アナタ自身がそうやって相手と【上下関係】を築こう(相手との距離を置こう)としている限り、その状況は変わりません。

この場合も、相手が親だろうと、教師だろうと、頑固で厳しい人だろうと、ツイ甘やかしてくる人だろうと、全く区別せず、一人の【人】として接すること(【横の関係】を築きあげること)が大事。ただし、「【上下関係】にならないように、ため口をきけ」と言っているわけではありません。当然、歳の差、経歴・経験の差があるわけですが、

意識の上で対等であること、そして主張すべきは堂々と主張することが大切(『嫌われる勇気』p.89)
です。ここでも「尊敬」「信頼」というキーワードは忘れないでください。親・教師を一人の【人】として接しながらも、「尊敬」「信頼」することはできるはず。

では、どうすればいいのかというと…えぇ、書籍『幸せになる勇気』を読んだ人ならわかると思いますが、【これからどうするか】を考えることです。それを考えるにはまず【自己受容】が大事。詳細は前回の記事をご覧ください。

その後は、相手の【行為】ではなく【存在】そのものに注目して「尊敬」「信頼」をしていけば良いです。この流れは、自分が親・教師だろうと、その子ども・生徒だろうと関係なく使えるものだと思っています。

番外編: 【個性】とは

音楽(に限らず…)では、よく【個性】を出せ!と言われますが、その【個性】とは何でしょうか。一般的には「人と違うこと」をすることだと言われますが、それは違う!というのが「アドラー心理学」です。つまり、

「人と違うこと」に価値を置くのではなく、「わたしであること」に価値を置くのです。(中略)その違いばかりを際立たせようとするのは、他者を欺き、自分にうそをつく生き方に他なりません。(『幸せになる勇気』p.153, 154)
と、いうこと。つまり【個性】とは、「私自身を認めたとき」に発揮されるものであり、人と違うことを求めるのは【個性】とは呼びません。「人と違うことをするために○○しよう」と無理に振舞わなくても、【自己受容】、つまり私自身を認めていれば、それが【個性】として現れてきます。

書籍『ミスタッチを恐れるな』にも「求めることをなくすことが個性のある演奏につながる」のような、似たようなことが書かれていたような気がします。

まとめ

【幸せ】は歩いてこない。だから…

「アドラー心理学」では、人間関係に大切なのは以下の3つと言われています。

  1. 自己受容
  2. 他者信頼
  3. 他者貢献
【他者信頼】は上記で散々言っていた「尊敬」「信頼」の部分です。これが【自分自身】になければ、人間関係はうまくいかないのは、上記の例でご理解いただけたかと思います。

最後の【他者貢献】ですが、「アドラー心理学」では以下のように定義されています。この流れが本当に秀逸!

他者貢献とは、「わたし」を捨てて誰かに尽くすことではなく、むしろ「わたし」の価値を実感するためにこそ、なされるもの(『嫌われる勇気』p238)
他者貢献していくときのわれわれは、たとえ目に見える貢献でなくとも、「わたしは誰かの役に立っている」という主観的な感覚を、すなわち「貢献感」を持てれば、それでいい」(『嫌われる勇気』p.252)
そして「アドラー心理学」では、【幸せ】を以下のように定義しています。
「幸福とは貢献感である」(『嫌われる勇気』p.253)

ややこしいので、ここで一旦まとめます。自分はダメだという気持ちを受け入れる【自己受容】をした後、相手を「尊敬」「信頼」するという【他者信頼】をすることで、良い人間関係を作り、「わたしは誰かの役に立っている」という主観的な感覚である【他者貢献】をすることで、わたしは【幸せ】を感じられる、というわけです。

「わたしは誰かの役に立っている」という主観的な感覚である【他者貢献】という部分、ちょっと見方を変えれば、「わたしは誰かの役に立っている」という感覚は、主観的な感覚でいいので、別に【思い込み】や【勘違い】でもいいわけです(ただし「お節介」は別。これは相手に興味を持っていない状態(相手は本当に喜んでいるか、に全く気付いていない状態)、つまり【他者信頼】をすっ飛ばした貢献なので、今すぐにやめましょう)。

これをピアノに置き換えるならば、以下の考え方が、「わたしは誰かの役に立っている」という主観的な感覚、つまり「わたしは誰かの役に立っている」という【思い込み】や【勘違い】にあたるでしょう。

  • 練習してピアノが上達したら、教えてくれている先生も嬉しいだろうなー♪
  • めげずに頑張ってピアノを続けてたら、支えてくれている親が喜ぶだろうなー♪
  • 私が笑顔で接していれば、生徒は楽しくピアノ続けてくれるだろうなー♪
  • ピアノ練習についてブログを書いたら、誰かが参考にしてくれるだろうなー♪(ぇ
このように【他者貢献】を【自分自身】で考えることで、音楽を続ける/伝える【幸せ】を感じられるわけです。「アドラー心理学」のこの部分は、非常に面白い考え方ですよね。よっしゃ、【自分の力】で【幸せ】GETだぜー!

この究極は「自分という存在がここにいるだけで、誰かの役に立ててる!」と思うことでしょう。実際、男性コンプレックス第1位, 2位を争う【背が小さい】という項目を持っている私は、そのコンプレックスを克服するために「この【背の小さい私】という存在がここにいるだけで、周りの人は(1)圧迫感を感じなくて済む、(2)変に気を使わなくて済む、(3)自分は背が低くないんだ、という安心感が持てる(ぇ)...etc.」のように考えました。おぉ、めっちゃ人の役にたってますね、私。

…えぇ、当然この理由の大半は、私の【思い込み】や【勘違い】でしょう。しかし、主観的に「わたしは誰かの役に立っている」という感覚が持てればそれでいいわけですから。そのおかげで私は【幸せ】を感じられるんです。

このように【幸せ】は、自動的にどこからともなく降ってくるわけでもなく、誰かが勝手に与えてくれるわけでもなく…【他者貢献】を【自分の力】で行うことで手に入るんです。だから、皆さんも「アドラー心理学」を実践して、【幸せ】目指して歩いていきましょう!

補足: 【ミスタッチ】は賞罰教育で、本当に直らないのか

特にピアノ演奏で話題となる【ミスタッチ】ですが、叱る・褒めるという「あめとムチ」の指導では本当に直らないのでしょうか。

そこにメスを入れたのが書籍『ミスタッチを恐れるな』でしょう。そもそも、【ミスタッチ】をしないことが、音楽に携わるうえで、一番大事な項目・目的・目標なのでしょうか?

その内容が気になる人は、その書籍を一度読むことをオススメします!(ここでその内容を書こうとすると、非常に膨大な量になり大変になるので…)

では。

P.S.
せっかくなので書籍『嫌われる勇気』の一節で私が気に入ったフレーズを一つご紹介します。

馬を水辺に連れていくことはできるが、水を呑ませることはできない(『嫌われる勇気』p.143)
どんなに相手をコントロールさせようとも、最後の決断(ここでは、水を呑むこと)ができるのは自分ではなく相手である、ということを忘れてはいけません。ただ、相手をある場所・環境に引っ張り出すこと(ここでは、馬を水辺に連れていくこと)はできるわけです。

その人を救えるのは最終的にその人自身が決断しなければならないのですが、その人を支えること、支援することは自分からいくらでもできる、というわけです。ここに【課題の分離】を考えるヒントがあります。

当ブログが、皆様のピアノ・ライフの支え・支援になっていれば幸いです。

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