コラム8: 努力による「ケガ」は【美徳】にするな!
公開日: 2017年10月19日木曜日 持論
こんにちは、リトピです。
このコラムでは、ピアノ以外の雑多なことを書いていきます。今回も、前回同様、「努力」について。
努力による「ケガ」は【美徳】なの?
前回のコラム「努力は【必ず】報われる」では、「報い」の本当の意味を考えると、努力は【必ず】報われているんだ、というお話をしました。その時、「成功」を「【目的の場所】に辿り着く」と定義し、そこの辿り着くまでの間を「はしご」に見立ててお話ししました。
前回のコラムでは、「どんどん次のはしごに登ろう!」と言いましたが…ここで、はしごに登りながら、ちゃんとその先を見ていないと大変なことにっ!!…というのが今日のお話。
努力による「ケガ」で引退したら…
スポーツ選手や演奏家の出来事でよくある話が…
この手の話は、ドキュメンタリー番組なんかで取り上げられ、「よく頑張った!」とか、「あんなに努力していたのに可哀想…」などのように、こういった【努力による「ケガ」】を【美徳】として捉える人が非常に多いような気がします。
でも、前回のコラムでの話を思い出してください。私は言いました、「努力は【必ず】報われる」、と。。。
つまり、この【努力による「ケガ」】というのは、「努力は【必ず】報われる」論で考えると…
- 【自分のボロボロな身体の状態に気付けない】ほどの努力をたくさんした
→ だから【大ケガ】をした - 【無謀なやり方で練習をする】という努力をたくさんした
→ だから【大ケガ】をした
このように考えることができます。前回でも言ったように、努力は「やればやるほど、何でも、誰でも、必ず結果がドンドン良くなる」という魔法のアイテムではないです。なので、どんなに努力しようが、大ケガするようなことをやり続けていた人には、それ相応の「報い」を受けてしまうんです。悲しい話ですけど…
これは…前回のはしごの例で考えると、【間違った】はしごを、何も考えずがむしゃらに、前も見えなくなるほど【努力】して登ってしまったがために、その先が崖であることも確認できず、そのまま落下してしまった = 大ケガをした、と言えるでしょう。
図1. 登っているはしごの先が見えなくなるほどの「努力」をした場合、もしその先が崖だったら… |
この、【努力による「ケガ」で引退】というエピソードは、「努力すれば良い結果が絶対に得られる」という考え自体が甘い・おかしい、というのを物語っています。この「大ケガ」は、【間違った】方向に努力しすぎて得られた結果、つまり、「努力が(悪い方向に)報われた」という証拠そのものではないでしょうか。
もちろん、【努力による「ケガ」で引退】した当人は、もう言葉では言い表せないほどのツラさがあるでしょう。ここでは、その人自身を責めているわけではありません。でも、このような【努力による「ケガ」で引退】というエピソードを【美徳】として扱ってしまうからこそ、今もなお、無理なトレーニングや練習のし過ぎで、同じようなケガをする人が後を絶たないのではないでしょうか。
努力による「ケガ」は、「頑張った証」ではなく、単に【(間違った)努力が(悪い方向に)報われた】だけです。そもそも、もし、努力による「ケガ」が「頑張った証」だったら、今もなお、(引退するほどの大ケガをせずに)現役で活躍しているスポーツ選手や演奏家たちは、何一つ頑張っていない、ということになります。それっておかしいと思いませんか?
なので、現役で活躍している人たちのためにも、【努力による「ケガ」で引退】は【美徳】として扱っちゃダメだと思います。そのエピソードは【教訓】にして、「どうすれば、自分(や生徒)はそういうケガを起こさなくて済むのか?」ということを考えるようにしましょう。
図2. 努力による「ケガ」は「美徳」ではなく【教訓】にしよう。同じようなケガをする人を増やさないためにも。。。 |
まとめ: ピアノに絡めて
この2連続で続いた「努力」コラムを、ピアノに絡めてお話することでまとめようと思います。
ピアノの練習のし過ぎによって、腱鞘炎になってしまうことがありますが、それは「頑張った証」などではなく【間違った弾き方によってケガした】と考えましょう。そのため、やるべきは、「休息」だけなく、【弾き方の改善】(= 別のはしごに登り始めること)が絶対に必要です。
ここで【弾き方の改善】をせず、「努力」という名のもとに、同じ場所に居座り続けたら…腱鞘炎は確実にまたやってきます。
それと同時に、今の自分の弾き方(今登っているはしごの先)もちゃんと見ておきましょう。もし努力のし過ぎ、練習のし過ぎで、その先が崖(弾き方が間違っている)ということのに、気付かなかったら…「大ケガ」という形で、その(間違った)努力が報われてしまいます。
また、「楽しく弾く」という【目的の場所】に辿り着くためには、「正しい」目標・目的(ex. プロのように弾く)を掲げ、それに向かうための「正しい」方法(ex. 重力を利用)、かつ、「正しい」手法(ex. 腕の支えを弱める)が必要です(ex. 重力奏法)。
このとき、努力は「やればやるほど、何でも、誰でも、必ず結果がドンドン良くなる」という魔法のアイテムではない、ということを肝に銘じ、弾き方が悪いな(登っているはしごが【間違っている】な)と感じたら、さっさと別の弾き方(次のはしご)を試しましょう。その行動を重ねていけば、誰でも必ず「楽しく弾く」という【目的の場所】に辿り着くことができます。
図3. 頑張って練習しすぎて手などを痛めたとき、その状況をどう考えるかで、その後のピアノライフが決まる、と言っても過言ではない。 |
では。
番外編: その他「努力」の名言について
せっかくなので(?)、「努力」に関する他の名言について、コメントしていきます。
努力は裏切らない?
まず最初は、「今でしょ?」で有名な(もう古い?)あの方の名言。
「努力は裏切らないって言葉は不正確だ。私はこの考えに否定的です。これは、「努力が裏切った」のではなく、ただ単に「【間違った】努力をしたから、【間違った】場所に辿り着いた」だけであり、努力は別に裏切っていない、ということだと私は考えています。
正しい場所で、正しい方向で、
十分な量こなされた努力は裏切らない。」
東進ハイスクール 林修
引用元: 努力は必ず報われるは嘘!?
これは、地図で考えてみるとわかります。下の図を見てください。
図4. 【目的地】に辿り着くためには、確かに「正しい場所」「正しい方向」「十分な量」の【前進する努力】が必要だが、別に努力は裏切っていない |
(1)の方向にさえ進んでいれば、【目的地】には辿り着けますが、もし、(2)や(3)の方向に進んでいたら、どんなに努力しても絶対に【目的地】には辿り着けません。さて、この【間違った】努力は、「裏切って」いるのか?
いいえ。この【間違った】努力は、「その道は【間違った場所】に辿り着く(or 【目的地】に辿り着かない)」ということを我々に教えてくれたんです。要は、努力して【間違った】道を進んだんだから、素早く【間違った】場所に着いた。。。
ね、そのような「間違った場所、間違った方向、十分でない量の努力」も、別に裏切ってはいないでしょ?もしこの【間違った】努力が裏切っていたら…【間違った】道に進んでいたのにも関わらず、なぜか【目的地】に到着してしまう…というミラクルが起こるはず。。。でも、そんなことは絶対に起こらないです。
ちなみに…この図の(2)を進んだ人の道をよく見てください。【目的地】に辿り着く(1)を進んだ人よりもずいぶん長い距離を歩いているので、(2)を進んだ人は(1)を進んだ人よりも努力している、と言えます。つまり、「【目的地】に辿り着くという「成功」を掴むのに「努力」の量は関係ない」、「人よりもたくさん努力したからといって、その【努力の方向】が間違っていたら、絶対に「成功」することはない」、ということです。
彼のこの発言で本当に大事なのは「努力は裏切るのか?」の真偽ではなく、「努力を、正しい場所・正しい方向・十分な量で使っているか?」ということを考えることではないだろうか。たとえ、「間違った場所・間違った方向・十分でない量の努力」でも、裏切りもせず、ちゃんと(?)それ相応の(ダメな)結果を我々に提示してくれるんだから、どんどん、努力しながら【次の道】に進みましょう。
練習は嘘をつく?
次は、ツイッターで話題になっているあの名言。
練習は嘘をつかないって言葉があるけど、頭を使って練習しないと普通に嘘つくよ。これは努力とは違った表現を使っていますが、似たような話みたいですね。「練習 = 努力」と考えるとわかりやすいですかね。この名言はツイッターで数多く取り上げられ、賛辞の嵐になっているようですが、これも私は完全否定します。
野球選手 ダルビッシュ有
引用元: ダルビッシュ有に学ぶ成功する人の考え方とは?努力の方向性について
嘘をついているのは、「練習」ではなく、【頭を使っていない自分】だ、というのが私の考え。【頭を使っていない自分】が、「今行っている練習は「良い練習」なんだ!」「この練習をやれば、絶対に上達できるんだ!」と自分自身に嘘をついているだけ。
だって、【間違った】練習(= 頭を使わずにやっている練習)を続けたら、【間違った】結果が得られるのは当然でしょ。ね、別に「練習」自体はなーんにも嘘をついてない、むしろバカ正直なんじゃないでしょうか。
このダルビッシュ有氏の言葉(の表面だけ)を賞賛する人は、「練習」についての考えを改めた方がいい。
だって、考えてごらんなさい。「あんなにたくさん練習したのに全然うまくいかない!」となったとき、その原因は、「練習」が嘘をついたから?それとも、【頭を使っていない自分】が嘘をついたから?前者のように、問題の原因を他者(ここでは「練習」)に押し付けていたら、いつまでたっても上達はしないです。
図5. 上達しないのは、「練習が嘘をついている」のが悪い(他責)、ではなく、その練習をしている【自分自身】に原因がある(自責)、ということに気付かないと、上達はしない |
えっ、その発言者であるダルビッシュ有氏はちゃんと上達してるって?そりゃそうだ、だって、彼はちゃんと「【頭を使って】いる」からでしょう。彼のこの発言で本当に大事なのは、「練習は嘘をつくか?」の真偽ではなく、「練習では、【頭を使って】いるか?」ではないだろうか。努力と同じように、練習も「やればやるほど、何でも、誰でも、必ず結果がドンドン良くなる」という魔法コマンドではないですから。
成功しなけりゃ努力じゃない?
最後は、この2人の名言。
「努力したが、結果は駄目だったでは、努力したことにならないのだ」
本田技研工業 本田宗一郎
引用元: 努力は必ず報われるは嘘!?
「努力が報われないことなどあるだろうか。報われない努力があるとすれば、それはまだ努力とは呼べない」こういう考え方、私は大っ嫌い。こういう「成功 = 努力の賜物だ」という考え方は「とにかく努力さえすれば、必ず成功する」、つまり、「やれば、何でも、誰でも、その結果が良くなる」のが努力だ、という考え方を助長させているような気がします。
元プロ野球選手 王貞治
引用元: 「努力は必ず報われる」論争に明石家さんま参戦 「そんなこと思う人はダメですね、間違い」
このコラムで何度も何度も言っていますが、努力は「やれば、何でも、誰でも、その結果が良くなる」という魔法のアイテムではないです。いくら努力しても、その「努力の方向」が【正しい方向】を向いていない限り、成功は絶対にありえません。それどころか、上記で説明したように、その努力のせいで前が見えなくなり、崖から転落、大ケガをしてしまうという恐れだってあります。これらの発言は、【努力による「ケガ」で引退】というエピソード製造マシーンのように見えます。
そして、この努力には「今やっていることを【もっともっと】やりなさい!」とか、「まだ成功していないのは、今向かっている方向に対して、前進している【量】が足りない。だから、【もっともっと】前へ進め!」などという意味が込められているような気がしています。ここで大事なのは、「結果がダメだった」ということに対して、「まだその努力が足りない!」などと責めるのではなく、【その次にどう行動するか】を考えることではないでしょうか。
いいですか、「努力」が結果を良くするんじゃない、重ね重ねの【試行錯誤】が結果を良くするんです。これをはき違えると、成功は絶対にしません。
図6. さて、どちらの考え方が、最終的に【目的地】に辿り着けるでしょうか… |
もしかしたら、この人たちの言う「努力」のイメージはこうなっているのかもしれない。
図7. 「努力」を誰よりも長く続けていれば、必ず、「成功」に辿り着く…? |
でも、残念ながら、この考え方は理想に過ぎません。なぜ彼らは、誰しもが最初から一直線に「成功」の方向へ進んでいると思っているのだろうか。。。現実を見てください。
図8. 現実は、「努力」を続けても、その【努力の方向】が違っていたら、絶対に「成功」には辿り着かない |
断言します。彼らが成功したのは、ただ単に「人よりもたくさんの努力をしたらから」ではないです。結果がダメだった(ダメになりそうな)時に【その次にどう行動するか】を考え、人よりもたくさんの【試行錯誤】を重ねたからです。まぁ、別にその行為自体を「努力」と呼んでもいいのですが…
個人的には…成功した人であればあるほど、その成功を「努力」という一言で片づけてはいけない、と思います。だって、その成功は、他の人が持つことのできなかった【「努力」以外のもの】のおかげで手に得られたんですから(だから、成功者というのは数が少ない)。
では。
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